東日本大震災

岩渕内科医院 岩渕正之

 

 

7か月が過ぎ、やっと震災に関しての文が書けるようになりました。

 

3/11(金)14:46

 

その時は午後の診察の真っ最中でした。

ドンッ!と下から突き上げられ、視線がブレる程の揺れがきました。

医院玄関は半分崩壊、自動ドアも開かず危険なため待合室の窓より患者さんを脱出

させました。

 

鳴り響くサイレン、津波警報…

 

医院隣の空き地に患者さんをまとめていると…

 

「津波だっ」

 

悲鳴が上がり、振り返った先は…

真っ黒な怒涛が町を押し流し、目の前を大きな屋根がガラガラと音を立てて移動

しておりました。

私の医院は高台にあり、津波がきても大丈夫だろうと思っておりました。

 

ところが、

 

地形の関係でしょうか…

津波は膨れ上がり、すぐ下まで押し寄せて渦を巻いておりました。

 

建物がめちゃくちゃに破壊され、流される音、サイレン、悲鳴…

 

津波は反復して押し寄せ、二回目は更に大きな波が来る…

家に帰ろうとする患者さんを今一度押しとどめ、様子をみるよう指示、

商工会議所が三階まで濁流に呑み込まれる様を茫然と見ておりました。

 

対岸のセメント工場から白煙が上がり、何十台の車が浮いたり沈んだりしながら

流されています。

 

「今、自分はどう行動すべきか」

 

県立大船渡病院が怪我人で溢れている光景が目に浮かびました。

 

この状態はけが人、溺水者でパニック状態になるはず。

医者はいくらいても足りない…

 

患者さんは近場の方がほとんどだったので迎えのご家族に託し、職員を帰宅させ、大船渡病院に向かいました。

 

裏道が一本だけ冠水しておらず、何とか到着。

すでに何人かの患者さんが救急処置を受けておりました。

 

私も救急チームに入れて頂き、2,3人の患者さんを診ました。

ところが思ったほど救急搬送が少なく、手が空いてしまいました。

 

この感じ…

 

理不尽な出来事に対するこの訳のわからない切羽つまった感覚…

以前にも経験した事がある。

 

何だっけ?

どこでだっけ?

 

あ、思い出した。

 

東京の大学病院の救命救急センターに所属していた時。

いきなり救急車が多数集まり、縮瞳と呼吸困難、意識障害の患者さんが次々と搬送されてきた事がありました。

 

そう、

それが、

 

「地下鉄サリン事件」でした。

 

事故とか病気とか、想定内の出来事に関しては気持ちの中で備えができます。

 

自然災害やテロなどの理不尽な出来事に関しては冷静でいることが難しい。

サリン事件の時も怒りを抑えて冷静さを保つので精一杯でした。

 

大船渡病院で診たのはいずれも軽症者でした。

 

おかしい…、重症者はどこに行ってしまったのか。

こんな大災害なら一瞬にして数百人レベルの患者さんが来る筈。

 

と、ウチの患者さんとバッタリ…

 

「みんな、北小に避難したよ。たくさん、行ったよ。走れない人はダメだったよ」

 

救急チームのリーダーに避難所に向かう事を告げ、北小学校に向かいました。

薄暗い体育館では発電機が唸り、350名ほどの避難者であふれておりました。

中には身体の前面は乾いているのに背中がぐっしょり濡れている方が数人。

津波の前面はしぶきのカーテンができていたそうです。

津波に追いかけられ、背中に死神のシャワーを浴びつつ助かった方達でした。

 

避難所リーダーのNさんに手早く状況を尋ねます。

とりあえず緊急性のある患者は発生していないが まだ全員の健康状態の把握ができていないと。

 

体調の悪い人は申し出るよう指示し、全体を見渡せる場所で深夜の警戒態勢を敷く。

 

夜半、すぐ下のハローワークで意識が無い避難者がいるとの知らせ。

急ぎ向かうと、あぁ、ウチで診ていた患者さん。

この方、緊張すると血圧が下がり、一見TIA発作にもみえる。

横にして足を少し上げると意識回復。神経反射はおおむね正常。

大丈夫、血圧がちょっと下がっただけ。

 

北小に戻り、冷たいパイプ椅子に座って夜が明けるのを待つ。

 

皆の訴えは…

「いつも飲んでいる薬が流された。」

「お薬手帳も流された。」

 

薬をどうにかしなければならない。

 

北小の避難者の方々が落ち着いたのは夜半の3時頃でした。

医院に戻り、散乱した薬を懐中電灯で照らしながらかき集めます。

降圧剤、抗血小板剤、抗生物質、NSAIDs、抗不安剤…

余震が続く中、優先順位をつけながらそれぞれのカテゴリーの代表的な薬剤を選び、往診車に積み込みました。

 

私の医院は院内処方だったため1カ月分位の薬剤在庫があったのは幸いでした。

 

 

3/12(土)2日目

 

夜明けと共に北小に戻ります。

市内の水は引いておらず、商工会議所の建物がぽっかり島のように浮いている。

 

避難所リーダーのNさんがあらかじめ薬を失った患者さんをまとめておいてくれ、助かりました。

 

薬の処方は困難を極めました。

薬を無くした方がずらりと並び、次々と泥水にまみれ、膨れ上がったお薬手帳が差し出されます。

持参した同程度の薬を処方し、記録。

 

しかし、お薬手帳を持たず自分が何の薬を飲んでいるか不明な方も多い。

 

「血圧とコレステロール、赤い玉ッコだ」

うーん、そう言われても。

頭を抱えてしまう。

 

状況を考えると一番必要なのは冠血管拡張剤、降圧剤、抗血小板剤。

この人は血圧が高いのか?脳梗塞、心筋梗塞の既往は無いのか?

それのみに処方を絞りました。

 

処方薬不明な方にはオーソドックスな薬を低力価で処方していきます。

 

糖尿病の方は殆どがお薬手帳を持っており、助かりました。

食事の供給が不安定なので低血糖防止のため軽めの処方としました。

 

まずは3日分の処方、30人程。

 

震災2日目となると情報も少しずつ入ってきます。

 

仙台市の被害も甚大で、海岸沿いには多数の遺体が確認されているという。

 

何ということだ。

仙台には私の家族がいます。

家内と息子2人。

生きているのか、無事なのか、

連絡の取り様が無く、道路も寸断されているため安否確認は不可能でした。

 

これから先、わざと忙しさに身を投じました。

家族の事を考える時間を消しました。

 

あいつらは無事だもん、絶対生きているもん。

そう思い込む事にしました。

 

午後からは状況確認のため市役所の災害対策本部へ。

これは毎日の日課となりました。

 

情報は錯綜しており、医師会とも連絡不可能。

医師の安否も不明。

 

「お願いがあります」

国から薬剤の援助の連絡があり、リストの制作をしてほしいとの事。

 

内服薬、インスリン、点滴用抗生剤、輸液、点滴ルート、針、抗インフルエンザ薬、インフルエンザ判定キットetc

思いつくものを書き出し、最優先事項として衛星ファックスで国に送りました。

1日で届いた大量の薬剤は私を勇気づけ、徒手空拳で戦わずに済みました。

以降、朝は本部で薬剤の供給を受け、避難所を回る事ができました。

 

しかし市内薬局さんへの供給は別で医院診療再開後は薬不足に悩むことになります。

 

 

これ以降の正確な行動記録が無いため、北小に残された行動記録を基に書きます。

 

災対本部で避難所の地図を確認、大船渡地区公民館と大船渡中学校が私の行動可能範囲内にありました。

 

まず、地区公民館へ。

何とか道は通じており、すぐ診察開始。

インスリン打ち間違いで低血糖状態の方を大船渡病院に送った後、一室を借り処方開始。

市の保健師さんに手伝っていただき、スムースな処方。70人程。

 

でも、

 

「自分のこの行動は間違いではないのか?単なる先走りではないのか?処方した薬で何かあったらお前は責任を取れるのか?」

 

この考えは私の頭にずっとこびりついており、悩みました。

 

つづいて大船渡中学校へ。

ここでは避難者の中に元看護師さんがおり、助かりました。

血圧を測り、お薬手帳に準じて処方。50人程。

手帳の無い方は初診患者さんを診る要領で処方。

よし、だんだんだんだん慣れてきた。

 

災害対策本部に戻ると大船渡病院脳神経外科の山野目先生主導の会議があるとの事。

DMATと地元医師による避難所医療体制の振り分けでした。

 

私の担当避難所は正式に北小学校、大船渡地区公民館、大船渡中学校となり、その人数は1800人。

そんなにいたのか…

 

以降、記憶が飛んでいます。

暗くなっても懐中電灯で照らしてひたすら処方をしておりました。

特に大船渡中学校は道路が通じておらず、大船渡病院の救急車用の入り口から三陸道に入り、大船渡碁石ICを降りて45号線を戻るという倍以上の距離でした。

 

各避難所の処方は3日間だったので順次再処方に回らねばなりません。

再処方は比較的システマティックに行なう事ができました。 避難されていた看護師の方や薬剤師の方々の獅子奮迅の働きは大きな助けでした。

 

ただ、薬が枯渇してきました。

災害対策本部に届く支援薬剤も必要なものが底をついた状態。

私の医院の在庫も降圧剤の使い勝手の良いものは使い切る寸前でした。

 

そこに朗報。

薬局さんの営業再開の情報。

 

僥倖!しめた、院外処方箋が使える!

院外処方箋を発行、避難所ごとにまとめて薬局に処方箋を持って行き、処方を受ける事ができるようになりました。

 

県外からの医療チームも続々到着。

 

大船渡地区公民館、大船渡中学校は彼らに任せるようにしました。

 

問題は北小学校。

他とは違い、正規の避難所ではないため行政の目が届きにくい場所です。

本来の正規避難所である大船渡小学校が被災したためやむなく北小に避難した経緯があります。

 

ここではしっかりとしたリーダー、Nさんと薬剤師のKさんの存在が大きかった。

体調を崩している方をきちんと把握してくれました。

私は彼らから報告を受け、対応するだけでよかった。

 

もっとも怖れたのがインフルエンザの流行。

学校を避難所として使う利点として保健室の存在があります。

 

発熱者は保健室に隔離、ある程度の時間をおいてインフルエンザのチェック。

陽性ならタミフル、リレンザの投与。

濃厚接触した家族にはその半量投与。

数人の発症者がでましたが避難所での流行は防げました。

 

 

3/13(日)3日目

 

家族の事を想い、眠れない夜でした。

生きているよな、絶対。

 

氷のようなシーツに身を潜め服を着たままスニーカーを抱いて眠るのにも馴れました。

早朝より北小学校に行き、診察。

発熱者のインフルエンザチェックを行い陰性を確認、抗生物質と解熱剤を処方、体育館に戻ってもらう。

 

災対本部に行き、薬の在庫チェック。

タミフル、リレンザは山と積まれているのにインフルエンザ判定キットが枯渇。

急ぎ、国にオーダーを入れる。

可及的速やかに対処するがいつ届くかは未定との返事。

保健師さんと巡回診療のスケジュール合わせをして災対本部を出ます。

大船渡中学校と地区公民館に行くと県外医療チームが毎日診察に来ているとの事。

良かった。

 

夜は北小学校で配給のオニギリをいただく。

 

10/14() 4日目

 

本日より診療再開。

壁のガラスブロックをベニヤ板で塞ぎ、電気、水、通信無しでの再開。

1台だけ確保できた灯油ストーブを置き、寒い中での診察。

 

薬不足で院外処方でも3日分しか処方できません。

遠くから徒歩でいらした患者さんに申し訳ない気持ちになります。

 

身内を失った患者さんも多く「元気を出して」なんてとても言えません。

「話を聞く事」に徹しました。

 

皆、気力を振り絞って病院に来るのです。

身内が瓦礫の下にいるのに自分が生きるために病院に来ねばならぬのです。

 

「私だけ生きて薬を貰いに来るなんて申し訳ない」

「死んだ者の分まで生きねばならない。だから薬を貰いにきました」

 

それに返す言葉は見つかりません。

ただ、ただ、頷き、淡々と診察しました。

 

あるお母さん。

 

ダウン症の娘を実家に預け、仕事に出ておりました。

そして地震。

小高い場所にある職場から駆け下ります。

下の実家からおじいいちゃん、おばあちゃんに手をひかれてダウン症の孫娘が必死に坂を上ってきます。

 

背後に迫る黒い波。

 

「お前は生きろ!」孫を突き飛ばした瞬間、おじいちゃん、おばあちゃんは津波に呑まれました。

 

私の前でお母さんは言いました。

「私、この子より先に死ねないのです。この子は一人では生きていけないのです」

 

「わかりました…」

それ以外の言葉は見つかりませんでした。

 

以降、毎日患者さんの言葉を聞き、胸にしまい込み、診察を続けております。

 

今回、私の話はここまでです。

もっともっと沢山の事がありました。

文字にして残さねばならぬ事も多いのですが…

 

長くなるので震災後4日間の事を書くのが精一杯です。

 

 

嬉しかった事もあります。

 

私の家族は非常な苦労をしましたが幸いにも無事生きていてくれました。

家内の頑張りに感謝します。

 

4/9 私の携帯が鳴りました。

 

高校の同級生であるカーレーサーの太田哲也氏でした。

全日本GT選手権でフェラーリに乗車中の多重事故で全身火傷を負い、数十回の手術を経て

奇跡的にレースに復活した男です。何度も生死の境を彷徨いました。

その生き方に共感した私は彼の主宰するレーシングチームに所属させてもらってます。

 

「何かをしなければいけない気持ちに突き動かされた」

 

彼は自ら援助物資満載のトラックで横浜から駆け付けてくれました。

「大船渡に着いたよ」その言葉は大きな勇気を与えてくれました。

 

事故で右脚が不自由な状態で何百キロも走ってきてくれた…

車椅子や新品の自転車、衣料、活用させていただきました。

感謝いたします。

 

帝京大学医学部メリカンフットボール部、大学の医局同門会からの過分な義援金は大切に使わせていただきます。医局にお礼に伺うこともできず、申し訳ありません。

 

ネットで私の安否確認をしていただいた友人達、ありがとうございました。

なかなか連絡がとれず、申し訳ありませんでした。。